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【吉田松陰先生】松下村塾の授業とは【師弟アクティブラーニング】
萩の松本村(松下村)にあったことが「松下村塾」の由来となっています。
松下村塾の所在地
〒758-0011 山口県萩市椿東1537 TEL0838-22-4643
松陰神社境内
萩市の明倫小学校(藩校明倫館跡地に建つ:松陰先生も明倫館で学び、明倫館で教鞭を執ったことがある)では、今でも毎朝、「松陰先生のことば」を朗唱しています。
つねに「高い志」を掲げ、豊かな「学びの姿勢」を持っていた松陰先生の教えは、今でも萩市内で脈々と生きています。
そんな松陰先生が授業をしていた「松下村塾」の授業内容についてまとめてみます。
松陰先生の教育スタイル
松陰先生は、学びたいものは、すべて受け入れてくれました。
学ぶ意欲さえあれば、年齢や身分に関係なく教授してくれたのです。
のちに内閣総理大臣になる伊藤博文や山縣有朋、その他にも品川弥二郎、吉田稔麿らは「藩校」である明倫館へは入れない身分の者でした。
「志」はあるが藩校へは入れない。
そんな長州の若者たちに、学びの場を与えてくれました。
武士も町人も関係なく、やる気があればだれでも来い!でした。藩校ではなく私塾ですからね。
基本的に教育課程(カリキュラム)はありませんでした。
この時代、商人が学ぶものだと考えられていた「算術」や、世界の動きを学べと「世界史(日本外史)」、書道などの「芸術」、さらには「倫理学」や「経済学」に至るまでなんでも教えたそうです。
日々、先生自身が学び、その時々のテーマで導くスタイル。
まさに「自己研鑽」に尽きる先生です。
そして、教えるだけでなく、門下生らからも、学ぼうとする姿勢をもっていました。
松陰先生は、入塾の際、門下生に「君はわたしに何を教えられるのか」と質問したほどと言われています。
松下村塾の門下生たち
「松下村塾」で松陰先生の教えを受けた人物はほとんど大成する、もしくは命を賭して行動する人物と成っていくのが門下生の大きな特徴です。
松陰先生のことば
死して不朽の見込あらばいつでも死ぬべし
生きて大業の見込あらばいつでも生くべし
死んでも朽ちることがなく名を残す見込みがあるならいつでも国家社会のために死すべきである
生きて国や人のために大きな事業ができるならばいつでも生きて行くべきである
そういった考えを継承した主な門下生です。
久坂 玄瑞
くさかげんずい:(1840~1864年)松下村塾の双璧の一人。長州藩における尊王攘夷の中心人物。松陰先生に信頼され、妹の文と結婚。蛤御門の変(禁門の変)で長州藩を率いて倒幕へと向かうが敗北、自害。江戸幕府250年の歴史に風穴を開けた。
【辞世の句】ほととぎす 血に鳴く声は 有明の月よりほかに 知る人ぞなし
高杉 晋作
たかすぎしんさく:(1839~1867年)松下村塾の双璧。奇兵隊を組織して、初代総督となる。長州藩をまとめ、倒幕へと導いた。
1863年関門海峡での、外国船砲撃事件の「講和会議」の交渉にあたる。英米仏蘭連合国からの「彦島の租借」権だけは「日本が廃れる」と憂慮し、「古事記を朗詠しつづけ」かたくなにはねのけた。※古来から日本は植民地にはなったことはない、という意味を含むものだったという。交渉時の通訳者:伊藤俊輔(のちの伊藤博文)反幕府に藩論を統一したが、明治維新直前に病死。
【辞世の句】おもしろきこともなき世をおもしろく
(下の句:野村望東尼 作 参考Wikipedia)すみなすものは心なりけり
伊藤 博文
いとうひろぶみ(旧:俊輔しゅんすけ):(1841~1909年) 農民の子として生まれる。父が士族の養子に入ることで、下級藩士の身分となったが、藩校には入れず。16歳で松下村塾に入り、高杉晋作らと学ぶ。22歳でイギリスへ留学、英語を学ぶとともに、諸外国の力を思い知り、開国に向く。下関の外国船砲撃に対して無謀さを痛感し、慌てて帰国。その後の、講和条約では、高杉晋作らの通訳を務めた。初代内閣総理大臣。大日本帝国憲法起草の中心人物。1909年中国ハルビンで暗殺。フグが好きでフグを山口県知事に解禁するようにはたらきかけたという。
【辞世の句】自分は畳の上では満足な死にかたはできぬ、敷居をまたいだときから、是が永久の別れになると思ってくれ
山縣 有朋
やまがたありとも:(1838~1922年)奇兵隊で頭角をあらわし、後に副官である軍監となる。第三代、第九代内閣総理大臣。入塾については、当初、「吾は文学の士ならず」として拒んでいたが、塾の門下生の久坂・杉山ら(杉山松助:池田谷事件で京都で襲撃をうけ、即座に長州藩邸まで危機を伝達に帰るが深手により、翌日、引きとった。)の推挙もあり、1958年10月に入塾する。しかし、翌11月、安政の大獄で師である吉田松陰をなくすが、たった一ヶ月で師に強く影響を受けたという。
【辞世の句】ながらへばまたいかならん過ぎし世は おもひの他のことばかりにて
松下村塾の教育方針
幾人もの有名な門下生を輩出してきた「松下村塾」
そこでの教育方針はいかがなものだったのでしょうか。
〈行動の重要性〉
松陰先生のことば
知は行の本たり 行は知の実たり
知識は行動・実践のもとであり、行動・実践は知識が実った果実である
知識がなければ、行動できぬ。行動するには豊かな知識が必要だ。
というわけです。
これは「知識」と「行動」を同列に考えているような言葉ですが、
重きを置いているのは、「行動」です。
学校だったら「学び」の成果は「点数」があがれば、まあ良しと考えるのですが、
松陰先生はそれをとにかく「行動」で示せ。
と考えているわけです。
儒学の一つである「陽明学」も深く学んでいた松陰先生は、「知行合一」の思想を重視します。
門下生にも、自身にも、学びの成果としては「行動」を伴うように実践した人です。
〈読書の重要性〉
松陰先生のことば
万巻の書を読むに非ざるよりは、寧んぞ千秋の人たるを得ん
一己の労を軽んずるに非ざるよりは、寧んぞ兆民の安きを致すを得ん
たくさんの本を読んで生き方を学ばねば、どうして大成するような人物になることができるか
自分のことに努力を惜しむようでは、どうして世の人に役立つ人間となることができようか
この言葉は、松下村塾、講義室の竹に彫られて飾ってあります。
「万巻の書を読むべし」とは、わたしの祖母がよく言っていました。
松陰先生の言葉に通じてたことは、あとから知りました。
松陰先生は、読書の効果をいたく感じています。
「読書は、もっとも人の心を変え、成長させるものだ」として、強く推奨していたのです。
〈待つ教育のすゝめ〉
松陰先生のことば
強制的な教育はせず、待つことを最良の教育方法だと考えて実践しました。そのために、「教えること」や「語り合うこと」を拒むことはなかったようです。
今、完成してなくても、教え育てることで、あとはより良く育つことを待つ。
これは、相手が誰であろうとも、意識したようです。
松陰先生の教育逸話の一つに「囚人教育」という実践があります。
実は、この教育実践が「松下村塾の授業スタイル」の礎となるのです。
松陰先生の「囚人教育」とは
1853年、松陰先生は、日米和親条約を締結するために来日した、ペリーの黒船に密航することを企てました。
後の、ペリーの記録には「向学心旺盛な日本の若者2人」とか「条約締結直後でなければ連れ帰っていた」などと残されているようです。
知識を得たら即行動
この心は、結果的に、松陰先生を短命たらしめたのかも知れません。
なんとも粗末な伝馬船に乗り、沖に停泊中の黒船につけ、密航を企てるほどの行動力でした。
松陰先生は弟子の金子重之輔と二人で渡米を計画したのです。
波の激しさに一度は失敗するも、二度目の挑戦&前日、偶然、米書記官に渡せた「投夷書」のおかげで、なんとかペリー総督に会うことができました。
しかし、ペリーは幕府と条約締結したばかり。
約束を簡単に破るわけにはいかず、乗船を拒否しました。
その後、松陰先生らは、自分たちの「やる気」を日本国民に知らしめようと、打ち首覚悟で下田奉行所に自首しに行きました。
ペリーからの計らいもあり、幕府は国許蟄居という軽罪で済ましてもらえました。
その時に、萩で入れられたのが野山獄(のやまごく)でした。
その獄中での教育活動。
松陰先生の獄中教育
・師を決めることなく、俳諧、書道などそれぞれの得意なことを生かし、「自分が人に教えられること」を、代わる代わる師となり教えた
・松陰先生は、孟子の講義を行った
・学び合う関係性、性善説(孟子)の講義は囚人、獄吏問わず聞き入った
・その結果、半年後には獄内の風紀が大きく改善したと言われる
前例のない、獄中での教育活動を行った。
その結果、獄内の風紀が改善したというという所こそ
まさに「教育」の真骨頂ではないでしょうか。すごい。
ちなみに、松陰先生はこんなことをしながらも1年間ほどで、500冊以上の本を読破するという、自身の学びも怠りませんでした。
この「教え合い学び合うスタイル」が松下村塾の基礎となったのです。
「松下村塾」松陰先生の授業はこれだ
松下村塾での主な指導方法
主にこの8つに分けられますが、他にも武術も行うなど、柔軟に対応していました。
1、講釈 松陰先生による講義
2、会得 グループで書を読んで研究、討論
3、順読 塾生による講義
4、討論 テーマに添う集団討論
5、対読 一対一の個人指導、松陰先生と塾生、先輩と後輩
6、看書 自習
7、対策 テーマに添う論文の筆記と松陰による添削
8、私業 読書をして塾生の前で評論し、批評を受ける
松下村塾の授業なんで、当然160年以上前の教育活動です。
これを見ると、ほとんどが、現代の「アクティブラーニング」スタイルです。
主体的対話的な学習活動によって学びを深めていっています。
2020年代と1857年(安政4年)の教育活動が偶然一致。
おそるべし松下村塾。
「アクティブラーニング」とは、2020年から小・中学校の学習指導要領で進められている「主体的対話的で深い学び」を実現するための手法です。
この図は、「アクティブラーニング」のラーニングピラミッドです。
ピラミッドの下に行くほど、「学びが深まる」ことを示しています。
ー深い学びー
「講義」だと5%
「読む」だと10%
「視聴覚」だと20%
「実演を見る」だと30%
「グループ討議」だと50%
「自分でやってみる」だと75%
「ほかの人に教える」だと驚異の90%
松下村塾の授業を、これに照らし合わせてみると
松下村塾の深い学び
ラーニングピラミッドより
1、講釈 松陰先生による講義(講義5%)
2、会得 グループで書を読んで研究、討論(グループ討議50%)
3、順読 塾生による講義(ほかの人に教える90%)
4、討論 テーマに添う集団討論(グループ討議50%)
5、対読 一対一の個人指導、松陰先生と塾生、先輩と後輩(講義orほかの人に教える5~90%)
6、看書 自習(読む10%)
7、対策 テーマに添う論文の筆記と松陰による添削(自分でやってみる75%)
8、私業 読書をして塾生の前で評論し、批評を受ける(10%のち→90%)
平均=45.31%の深い学び
アウトプット主体に展開される松下村塾の授業数値はごらんの通りです。
驚異的な「主体的対話的で深い学び!」
松下村塾ブラボー!です。
さらに松陰先生は門下生には、次のように言っています。
松陰先生のことば
沈黙 自ら護るは 余甚だこれを醜む
黙っている者。わたしは、これをたいそう憎みます。
身分の差も関係ない、誰でも、いつでも好きなだけ学べばよい。
先生は何も教授できないから、自分たちで学び合いなさい。
そして、あなたたちと共に、わたしも学びます。
だから、熱心に議論しましょう。
思考しましょう。
身分を意識して生活を送っていた江戸時代の人々に、自分の考えをどんどん言え、と言った松陰先生。
その教え方によって、何人もの門下生が世に大きく飛び出していくようになったんですね。
松陰先生自身の勤勉さ
松陰先生の勤勉さを伝える話があります。
松下村塾では、学問だけでなくも畑仕事も、しっかり取り組むよう奨励しています。
むかしは、「米つき」という作業がありました。
もみすりが終わった玄米を、白米へと精米する作業です。
このような機具を使い、太い棒を足で踏み、うすの中の玄米をついて、白米にしていきます。
この作業をしていた松陰先生は「作業する時間に読書ができる」と考えます。
天井から2本のひもを垂らし、まな板のような板をつけて、作業しながら使える「机」を作りました。
そして、その机の上に、本を置き、読書をしながら作業をするのでした。
だいたい50ページ読むと、うす一杯分の精米が終わっていたと言います。
さらには、米つき機のそばに門下生を座らせ、その机の上に本を置き、作業しながら講義まで行ったそうです。
新アララギの歌人・選者だった小谷稔先生も、米つきをしながら短歌を口ずさみ暗記した、とおっしゃっていました。
勤勉な人は、隙間時間を有効に活用する、というのは今も昔も変わりませんね。
【吉田松陰先生】松下村塾の授業とは【師弟アクティブラーニング】まとめ
吉田松陰と「松下村塾」についてまとめました。
松陰先生は、過激思想の持ち主だと思われがちです。
普段の人柄は、穏やかで優しい人だっとい言われています。
勅許なく、「日米修好通商条約」を勝手に結んだとして、井伊直弼を暗殺しようと考えるような思想。
さいごには、その計画はとっくに頓挫しているにも関わらず、聞かれていもない奉行所に「井伊直弼を暗殺しようと考えた」と言い放ち、安政の大獄へと進むことになりました。
「ここまでのことを考えてるんだ」という気概、真剣度を伝えたい、
また、「思想は口に出して伝えるべきだ」という知行合一の精神。
現代の視点から見ると表面的には、過激思想にも思えますね。
ただ、本質的には
時に熱情的な面もありつつも、丁寧な言葉で話し、人の好さを見抜き言葉にあらわす。
清廉質素な生活の中で、あまたの本に読みふける。
口だけでなく、常に師自身が率先実行して見せる姿。
門下生らは、そんな師の姿に、感化魅了されたのかも知れません。
おわり
《出典根拠》
一坂太郎編『萩ものがたり松陰先生のことば』一般社団法人萩ものがたり発行 2020
松陰神社 社務所『松陰神社記』松陰神社発行 2021
田中正徳『志 学びの道 松陰先生語録』株式会社ショウイン 2020
安冨静夫『歴史講座資料 山縣有朋と東行庵』2021
幕末維新庵 『松下村塾での吉田松陰による教育を簡単解説』
犬養喜博 『吉田松陰の教育と思想ー松下村塾における教育を中心としてー』1986
NHK for School 『農機具の発展 もみすり』